漁師の町大王町波切には、古来よりかつお節づくりの技が伝承されてきました。

縁起物として喜ばれる”亀節”を主流とした本格的なかつお節は、
「波切節」の名で知られています。

 波切節の発祥については定かではありませんが、文政5年
(1822)作の「諸国鰹節番附表」に、すでに行司役として
「志摩 波切節」の名が記されており、これ以前から鰹節づくりが
行われていたのは確実と考えられています。

波切の人は器用で、あちこちで出稼ぎというのか、
あちこちで技術指導をしていたようです。
 鰹節職人も、南は鹿児島から北は仙台まで、点々と渡って
指導をしていき、それで行司役に選ばれたようです。

波切節とは・・・

諸国番付表との出会い

江戸の文政5年 鰹節
諸国番付表
なるものが、江戸の庶民の間に、大流行しました。この番付表は、江戸に集まってきた各地のかつお節を大相撲の番付表に見立てた、いわば東西見立て遊びのひとつですが、かつお節がいかに庶民達の生活の中にしっかりと根づいていたかを知ることのできる資料として、知られています。
この番付表で、「波切節」は、行事役としての、大役をいただいています。
この番付の割り振りにも色々な、裏付けが考えられるとして、今もいろんな推察・議論を生みだしています。
 かつお節を知る上でも、この当時の江戸の文化を知る上でも大変興味深い資料といえますかつお節屋としてのひとつの転機は、この「諸国鰹節番付表」に出会った事です。地元の波切でも、忘れかけられている「波切節」。しかし、その歴史は、思っていたより奥が深く、熱い想いの伝承によって伝えられてきた「かつお節」なのだと再認識したのです。
「波切節」を昔のように復活させること、先人達が伝え続けてきた技・歴史を再認識すること先人たちの想いと、培われてきた技を埋もれさせてはいけない。
そうすることが、波切の、かつお節屋のまるてんにとって、かつお節に想いをこめる…魂をいれることに通じるのではないかと思いつづけてきたのです。
江戸の人々に熱狂的にもてはやされたかつお節の歴史・こだわりを知る事・それを正しく伝える事、良いかつお節を提供する事に同時にそれらも絶対必要なことだと、この想いがまるてんの「波切節」と取り組む出発点となっているのです。

参考資料 「日本食三彩」